大乗仏教と小乗仏教(上座部仏教)の違い

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仏教の2つの流派・大乗仏教と上座部仏教


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 現代の仏教はおおきく2つの伝統的な流派に分けることができます。「大乗仏教(Mahayana)」と「上座部仏教(Hinayama)」と呼ばれ、ブッダの入滅後紀元前3世紀ごろに分裂したといわれています。

「大乗仏教」は釈迦の教えを大衆に広め、衆生を救済する教えです。大乗仏教は自利利他を精神とし、自らが悟りのために精進するとともに他人に救済のためにも同時に尽くすことを目的とします。大乗仏教は主にチベット・モンゴル・中国・韓国・日本で信仰されており、中国や日本の禅もこの流派に属します。

「上座部仏教」は戒律に従い自らを救済することを目的とし、出家して修行を積むことでしか悟りの境地に到達できないという考え方です。ごく一部の限られた人のみしか救われないという教義から「小さな乗り物」と表現され、大乗仏教と比較して「小乗仏教」とも呼ばれます。小乗仏教はテーラヴァーダーやパーリー教として、スリランカや東南アジアに残っており、ブッダ自身が実践した本来の仏教の形であると主張しています。

結集による仏典の編纂

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ブッダの入滅後、ブッダの教法と戒律において保守派と革新派の対立がたびたび起こりました。保守派は現在の上座部仏教、革新派は大乗仏教のはじまりです。大乗仏教を体系化した龍樹(りょうじゅ)が登場するまで700年余り、仏法を後世に正しく伝えるために大々的な仏典の編纂事業が4回にわたって行われました。この事業は仏教の比丘(僧侶)が集まり協議を重ねて教法・戒律・論書をまとめる大事業で、結集(けつじゅう)と呼ばれています。

第一結集

第一結集はブッダの入滅後すぐにマハーカッサパ長老を中心に行われました。マハーカッサパ長老はブッダが生前に最も信頼を寄せていた弟子とされており、ブッダの死後の肉体はマハーカッサパ長老がクシナガラ(ブッダが入滅した地)に到着するまで燃えなかったといわれています。

第一結集はブッダの十大弟子・アーナンダが教法をまとめ、ウパーリが戒律の基礎を築きました。アーナンダは多聞第一の弟子で、もっとも多くの説法を聴き記憶力が抜群だったため、教法の編纂に多大な功績を残しました。ウパーリは弟子のなかでもっとも戒律に精通していたため、ウパーリが中心となり戒律をまとめました。

第二結集

第二結集はブッダの入滅から約100年後に行われました。第一結集から1世紀を経て、時代に沿って戒律を改編していくべきという革新派と戒律を変えるべきではないという保守派の意見が対立しました。十項目の戒律を改変する審議が行われ、十項目が非法であると採決されましたが、この結果は大きな波紋をよび、仏教が保守派の上座部と革新派の大衆部の二派に分裂するきっかけとなりました。

第三結集

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第三結集はアショーカ王の時代に行われたといわれています。アショーカ王は仏教を民衆に普及させたインドの王で、仏教に篤く帰依し仏教興隆に多大な援助をしました。アショーカ王はインドを征服した王で、戦争中においては冷血無尽な王として知られ、残忍な殺戮によって次々にインドの小国を征服していました。しかし一方で悲惨な戦争や自身の行為に対する懺悔も持ち合わせており、ニグローダの説法によって深く仏教に帰依しました。

アショーカ王は仏教の教えに基づいた国づくりを始め、仏教徒の庇護に励みましたが、異教(ほかの宗教)の排斥や僧侶の堕落、国の財政逼迫に繋がり、清廉潔白な仏教守護は困難を極めたようです。僧院では多くのバラモンが仏教徒を装って住みつき、勝手なふるまいをしたことが問題となり、異端審問会議が行われ、異端者を還俗させるなどの措置が取られました。

その後仏教の正法について改めて協議する場が設けられ、この会議は第三結集とよばれています。会議によってまとめられた正法は「論事」という論書にまとめられ、伝道師が各地に布教していきました。この教えは上座部仏教の教えとなり、インドからスリランカ・東南アジア諸国に伝えられました。

第四結集

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第四結集は二世紀の中頃カニシュカ王の時代に行われました。この頃のインドはクシャーナ朝が統一しており、プルシャプラ(現在のパキスタン)を首都とし、中央アジアから西インドを支配していました。プルシャプラはシルクロードの要衝として栄えた街で、東西のさまざまな文化が伝わり、宗教においても同様でした。カニシュカ王はすべての民族の宗教に理解を示しており、仏教においてはとりわけ篤く興味を示したといわれています。

この頃、仏教界は多くの部派にわかれていましたが、そのなかでも有力だった脇尊者が中心となって、第四結集が行われました。今日の上座部仏教の教理とされる「阿毘達磨発智論(あびたつまほっちろん)」とその注釈書「阿毘達磨大毘婆沙論(あびたつまだいびばしゃろん)」は第四結集にて完成しました。この教理の集大成は当時は上座部仏教の教理とされていましたが、のちに大乗仏教の教理をより明確な形に導くものとなります。

大乗仏教を体系化した龍樹(りゅうじゅ)

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龍樹(りゅうじゅ・Nagarjuna)は2世紀に生まれたインドの僧で、大乗仏教を体系化した人物とされています。バラモン出身でしたが出家して仏門に入りました。はじめは上座部仏教に入門しましたが、その教えに満足せず北インドに向かいました。龍樹は般若経を説く老僧との出逢いによって大乗の教えに触れ、大乗経典の研究に没頭しました。研究と大乗の論師との問答を経て、ブッダのもっとも基本的な立場は「中道(ちゅうどう)」であることに気づきます。

龍樹は「空(くう・sunyata)」の概念を提唱し、大乗の奥義をまとめる「中論」を編纂しました。無常を「すべての事象は空である」と説き、自性(存在の本質)はすべて永続的ではないと主張しています。そのほかにも「大品般若経(だいぼんはんにゃきょう)」や「大智度論(だいちどろん)」など、仏教のさまざまな百科全書といえる注釈書を著しました。龍樹は北インドを中心に大乗仏教を教化し、その後インド南方に強化を広げていきました。第2の仏陀とも呼ばれ、禅宗やチベット仏教の教えに大きな影響を与えています。

大乗仏教は自他ともに慈悲深い菩薩になることを目的しており、上座部仏教は自分自身の解放を目指します。そのため、大乗仏教を「おおきな乗り物」、上座部仏教を「ちいさな乗り物」と表現されます。

仏教の流派による解釈の違い

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インドの仏教伝道師たちはシルクロードを渡って中央アジアに、また中国や日本に信仰を伝えました。預言者・イエスキリストの死後の初期キリスト教会のように、仏教もまたブッダの入滅後にサンガ(仏教修行者の集団)が分裂や紛争をする傾向がありました。

テーラヴァ―ダ仏教は残存する唯一の上座部仏教ですが、そのなかでも数十の宗派があり、三方帰依(仏・法・団)の異なる解釈を持っています。これはコンスタンティノーブルのローマ法皇が初期のキリスト教会の評議会に影響を与えたのと同じように、仏教の権力者が優位に立つために介在することがありました。

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これらの違いは戦争や虐殺を生むことがありませんでしたが、多くの宗派は自分たちのみがブッダの正しい継承者であり、正しい法の解釈をしていると主張しました。東南アジアとスリランカのテーラヴァ―ダ仏教徒は自分たちがブッダの伝統的な教えにもっとも近づいており、ブッダの正当な教えであると主張しています。この考え方は大乗仏教の多くの教えを一切排斥しています。

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大乗仏教にもまた多くの宗派が存在します。チベット・モンゴルのヴァジャーヤナ派(vajrayana・金剛教)はヒンドゥー教の影響を受けたタントラといよばれる密教の儀式が基本です。チベットでは入念な儀式と複雑な哲学のシステムに基づいた優位性を主張し、1959年ダライ・ラマが中国によってチベットから追放されてから、西洋によく知られるようになりました。またチベット仏教は4つにの宗派に分かれ、より複雑な事柄を形成しています。

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中国・韓国・日本は大乗仏教の2番目の主要な宗派です。いずれの国も土着の宗教と結びつき、仏教は信じられないほど活発で豊かな伝統となりました。中国仏教の主な宗派である禅宗・天台宗・浄土宗はやがて日本に伝わります。仏教を由来とする卓越した東アジアの文化はそれぞれが優れています。もしインドが仏教の根であるとすると、中国が幹であり、日本の禅がブッダの教えから禅へと導いた長い歴史と過程の集大成となる花といえるでしょう。

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