三十三間堂のみどころ
三十三間堂のみどころは千体千手観音菩薩立像です。本堂に入ると感じる荘厳な空気と1000体以上の類まれなる仏像の数に衝撃を受けます。平安時代や鎌倉期の彫刻技術とその膨大な数に圧倒され言葉を失うことでしょう。それぞれ仏像の表情が異なり、自分に似た仏像が一体居るといわれています。自分に似た仏像を探すのも楽しみのひとつです。ほかにも堂内に中央に鎮座する中尊の千手観音菩薩坐像の存在感や細かな彫刻、前列で千手観音菩薩を護る風神・雷神像と二十八部衆も圧巻の造形美です。仏像好きにはたまらない、また仏像に興味がなかった人も興味が持てる仏像パラダイスが広がっています。
蓮華王院三十三間堂
三十三間堂は1001体の千手観音菩薩像が鎮座する仏堂で、京都屈指の観光名所として人気があります。小柄な男性一人の身長ほどの高さがある1001体の仏像が一堂に会する光景は圧巻で、京都に入ったら必ず訪れたい寺院のひとつです。通称・三十三間堂として知られていますが、正式には「蓮華王院(れんげおういん)といい、天台宗妙法院の境外にある仏堂です。
本堂には正面に柱間が33本あることから三十三間堂と呼ばれています。はじめの建立から80年後に一度焼失しましたが、室町・桃山・江戸・昭和の大修理によって、700年以上にわたり保存され続けてきました。本堂の建築と内部に安置されている、千手観音菩薩坐像・千手観音菩薩立像・風神・雷神像・二十八部衆立像は国宝に指定されている文化財です。
三十三間堂のはじまり
三十三間堂(蓮華王院)は1164年(長寛2年)に後白河上皇が平清盛に資材協力を命じて完成されたのがはじまりです。かつて後白河上皇が院政御所として建築した法住寺の一角に建てられました。末法思想が蔓延により貴族をはじめ人々が不安に苛まれるなか、後白河上皇は阿弥陀如来に救いを求め、阿弥陀如来の側近である千手観音を1000体作ることで仏法に救いを求めたといわれています。
一説には仏のお告げに従い、富田川(岩田川)で見つかったドクロを千手観音に納め、柳の木を梁に使用したところ、後鳥羽上皇が長年悩まされ続けた頭痛が治ったといわれています。このドクロが蓮華坊とう僧侶であったとされることから「蓮華王院」と名づけられました。この伝承によって「頭痛封じの寺」として篤く信仰されています。
末法思想とはお釈迦様の入滅から1000年後、釈迦の教えを正しく修行するものがいなくなり、像法が蔓延することで世の中が暗黒時代に突入すると説かれた思想で、その時期にあたった平安時代の人々を恐怖と混乱に導きました。平安時代後期は死後の恐怖から多くの貴族は仏法に帰依し、寺院や仏像の造立が盛んに行われ、さまざま仏教文化が生まれています。
平氏の台頭
三十三間堂の建立は日本の歴史上武士が台頭するきっかけとなった平氏と深い関係があります。蓮華王院は前述のとおり、平清盛が後白河上皇のために寄進しており、朝廷に平家一門の力を見せつけました。蓮華王院は1164年に建立されましたが、この時代にはもうひとつの三十三間堂が存在しています。
1132年(天承2年)に創建された得長寿院です。得長寿院は平清盛の父・忠盛が鳥羽上皇に寄進した寺院で、平氏が中央に介入するきっかけとなりました。はじめに観音菩薩像を1000体安置したのが得長寿院で、各仏像の胎内にも小さな仏像が納められていたそうです。33間の柱構造を導入しており、蓮華王院は得長寿院をモデルとして造られました。親子二代でそれぞれ寄進された三十三間堂ですが、得長寿院は1185年(元暦2年)に文治地震によって倒壊してしまい、以降再建されることはありませんでした。1185年は壇之浦の戦いのあとにあたり、平氏の衰退とともにもうひとつの三十三間堂は失われることになりました。
三十三間堂の境内
三十三間堂の境内は国宝の指定されている本堂が主な建造物で、ほかの仏堂などはありません。創建時には五重塔などもあり本格的な伽藍があったそうですが、1249年(建長元年)の火災で焼失しており、1266年(文永3年)に本堂のみが再建されています。境内の重要文化財としては境内の南端を仕切る塀が桃山時代の築地塀です。太閤・秀吉が方広寺を建立する際に寄進しており、太閤塀と呼ばれています。
三十三間堂の寺宝
三十三間堂に安置されている仏像は国宝に指定されています。本堂に足を踏み入れると、うつくしく整列された仏像群と堂内の荘厳な空気に圧倒されます。1001体の千手観音菩薩立像はもちろん列の先頭を仕切る二十八部衆と両脇を護る風神・雷神にも注目してください。
千手観音菩薩坐像
1000体の千手観音菩薩立像の真ん中に君臨する巨像が「十一面千手千眼観世音」とよばれる仏像です。仏像の高さは約3m35㎝で台座と光背を合わせると7mを超えます。檜の寄木造で頭上に11面の顔と40種の手はそれぞれ異なる持物や形をしており、腕の造形だけでも圧巻です。慶派の仏師・湛慶が82歳のときに造立され、鎌倉期の名作と評価されています。
千体千手観音菩薩像
本堂のほとんどを埋め尽くすのが千体千手観音菩薩立像です。仏像の高さはそれぞれ166㎝前後で、堂内南端の最上段から下段に向かって番号が振られています。等身立像のうち、124体が御堂の創建期につくられ、ほかは鎌倉期に約16年の歳月をかけて再興されました。仏像の再興には仏師として名高い奈良の慶派・京都の円派・院派の主要な仏師が制作しており、各仏像に銘記が残っています。仏像によって表情やつくりが異なり、その違いを鑑賞するのが三十三間堂の楽しみのひとつです。
風神・雷神と二十八部衆
堂内の両端を護っているのが風神・雷神像です。風袋を持った風神と雷太鼓を持った雷神像は力強く躍動感があり、鎌倉文化の彫刻の代表的な作風といえます。風神像は111.1㎝、雷神像が100㎝で寄木造で玉眼が使用されています。水晶が使われている玉眼は場所によって光が入り、命が宿ったように見るのが特徴です。江戸時代に活躍した絵師・俵屋宗達の「風神雷神図屏風」は三十三間堂の風神・雷神像をモデルにして描かれています。
二十八部衆は千手観音立像の先頭と中尊の四方を囲んでいる28体の仏像です。千手観音とその信者を護る神々でインドの神様を起源としています。阿修羅や迦楼羅王に代表される八部衆や毘沙門天や吉祥天に代表される天部など、よく知られている仏像も多いです。二十八部衆にも玉眼が採用されているので、今にも動きだしそうな躍動感があります。
三十三間堂の催し
三十三間堂の代表的なしは、毎年1月中旬に行われている楊枝のお加持と通し矢です。毎年2万人の観光客が訪れる最大の縁日で、境内が無料開放されます。
楊枝のお加持
楊枝のお加持は平安時代からの伝統を受け継ぐ三十三間堂で最も重要な法要です。聖樹とされている楊枝で、観音菩薩に期限した法水を参拝者に注ぎます。諸病を取り除くといわれるインドから伝来した修法です。三十三間堂ではとりわけ「頭痛封じ」にご利益があると伝えられています。
通し矢
通し矢は江戸時代から伝わる伝統的な球技大会で、全国から約2000人が参加します。楊枝のお加持と同日に行われており、新成人の女性が晴れ着で協議を行う姿がお正月の風物詩となっています。堂内に多数残っている絵馬は通し矢のこれまでの記録です。
三十三間堂の御朱印
三十三間堂の情報
寺院名 | 蓮華王院 三十三間堂(れんげおういん さんじゅうさんげんどう) |
住所 | 〒605-0941 京都府京都市東山区三十三間堂廻り町657 |
電話番号 | 075-561-0467 |
拝観時間 | 8:30~17:00 ※9:00~16:00(11/16~3月) |
拝観料 | 大人:600円 中・高生:400円 子供:300円 |
公式サイト | 蓮華王院三十三間堂公式サイト |
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